大阪地方裁判所 平成8年(ワ)8710号 判決 1999年3月08日
原告
甲野太郎
外三名
右四名訴訟代理人弁護士
藪口隆
同
植村公彦
同
中村悟
被告
○○教団
右代表者代表役員
甲川次郎
外三名
右四名訴訟代理人弁護士
藤原忠
主文
一 被告○○教団、同乙野四郎及び同丙野五郎は、原告ら各自に対し、各自金六一四万三四二八円及びこれに対する平成五年九月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その三を被告○○教団、同乙野四郎及び同丙野五郎の、その余を原告らの各連帯負担とする。
四 この判決は、原告ら勝訴部分に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 申立て
被告らは、原告ら各自に対し、各自一〇〇七万七三三七円及びこれに対する平成五年九月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 事案の概要
本件は、被告○○教団(以下「被告教団」という。)の開設するK病院(以下「被告病院」という。)に入院し、平成五年九月一六日に死亡した甲野春子(以下「春子」という。)の相続人である原告らが、春子は被告病院で投与された麻酔薬によりショック症状を起こして死亡したものであるとして、被告病院で春子の主治医であった被告乙野四郎(以下「被告乙野」という。)、被告病院で春子を担当していた看護婦である被告乙川夏子(以下「被告乙川」という。)及び医療法一〇条所定の被告病院の病院管理者である被告丙野五郎(以下「被告丙野」という。)に対しては不法行為に基づき、被告教団に対しては診療契約の債務不履行責任ないし使用者責任に基づき、それぞれ損害賠償を請求した事案である。
二 争いのない事実
1 春子(明治三七年九月二二日生)は、平成五年九月一六日、被告病院において死亡した者である。
被告教団は、被告病院を開設する宗教法人、被告丙野は、被告病院の当時の病院管理者、被告乙野は、被告病院に勤務し、春子を担当した主治医、被告乙川は、被告病院に勤務し、春子の看護を担当した看護婦である。
2 春子は、平成五年八月二一日に被告病院に運ばれ、当直の堀口進医師(以下「堀口医師」という。)の診察を受け、同日入院した。
被告乙野は、翌二二日に堀口医師から引継ぎを受けて春子の主治医となり、カルテに目を通した。
3 被告乙川は、カルテに記載された指示に従い、平成五年八月二二日午前一一時一五分ころ春子に対し、麻酔薬である一パーセントキシロカイン(以下単に「キシロカイン」という。)八ミリリットルを硬膜外注入したところ、血圧が最高七〇、最低四八に低下したので、被告乙野から指示を受け、昇圧剤であるエホチールを投与した。春子の血圧は、同日午後〇時一五分には、最高一六八、最低六〇に回復した。
4 春子は、平成五年八月二六日に被告乙野の執刀により、左大腿骨頸部骨折の観血的内部整復法による手術(以下「本件手術」ともいう。)を受けた。春子の血圧は、同日(以下、同日に発生した事項については、日の記載を省略することとする。)午前七時には最高一三〇、最低八〇、午前八時には最高一八〇、最低九五であったが、その直後キシロカイン一〇ミリリットルの硬膜外注入が行われたところ、午前八時一〇分には最高八〇、最低五〇に低下した。そこで、春子に対してエホチール二ミリリットルの静脈注射が行われ、一旦は血圧が回復しかけたが、同日午前八時二五分には最高九〇、最低五〇に低下したので、その後三回にわたりエホチール各二ミリリットルの静脈注射が行われた。春子には、午前九時二五分及び同三〇分過ぎにもキシロカイン各五ミリリットルの硬膜外注入が行われたが、各注入直後、それぞれ午前九時三〇分過ぎ及び同四〇分に、エホチール各二ミリリットルの静脈注射が行われた。
本件手術は、午前八時三〇分に開始され、午前九時四五分に終了し、春子は、午前一〇時に病室へ戻されたが、被告乙野は、春子が痛みを訴えたときの一般的指示として、麻酔薬である0.5パーセントマーカイン(以下単に「マーカイン」という。)八ミリリットルを硬膜外注入すべき旨をカルテに記載した。
5 被告乙川は、右カルテの記載に従い、午後三時一三分ないし一四分ころ春子に対し、マーカイン八ミリリットルを硬膜外注入した。午後三時の時点における春子の血圧は最高一五六、最低八三であったが、右注入後の午後三時三〇分には最高五四、最低二一、午後三時三一分には最高五九、最低二八、午後三時三七分には最高五三、最低三一、午後三時四〇分には最高四五、最低〇となり、午後三時四五分には血圧は測定不能になった。そこで、佐藤義幸看護士(以下「佐藤」という。)が、午後三時四〇分に春子に対し、エホチール八ミリグラムの点滴や心肺蘇生術等を行ったため、春子の血圧は、午後三時五五分には最高一五六、最低六六に回復したものの、意識レベルは三〇〇(刺激しても覚醒せず、痛み刺激にも全く反応しない状態)ないし二〇〇(刺激しても覚醒しないが手足を動かしたり顔をしかめることがある状態)までしか回復しなかった。
6 春子は、右状態のまま、平成五年九月一六日午前五時四四分、心不全により死亡した。
三 争点
1 被告乙野の過失の有無
(一) 原告ら
被告乙野は、春子の主治医として、春子に対する麻酔薬投与後麻酔ショックによる急激な血圧低下が発生したことに照らし、その後同様に麻酔薬を硬膜外注入すれば、麻酔ショックを発症し、死に至る危険が発生することを予見できたはずであるから、次のような義務、すなわち、
(1) 春子が本件手術後痛みを訴えた場合の処置として、麻酔薬の硬膜外注入を回避し、他の適切な鎮痛剤(ペンタジン、ボルタレン等)の投与を指示すべき義務
(2) 春子に麻酔薬を硬膜外注入するのであれば、少なくとも平成五年八月二二日に投与したキシロカイン八ミリリットル相当よりも濃度・用量ともに大幅に減じて投与すべき義務
(3) 麻酔ショックの発症に備えて予め輸液ルートを確保し、室内に昇圧剤、抗けいれん剤、強心剤、副腎皮質ステロイド等を用意しておくほか、気道を確保し、酸素吸入器、人工呼吸器等の蘇生器具で対処できる態勢を備えておく義務
(4) 麻酔行為が医師法一七条所定の医師でなければ行えない医業に当たることに照らし、医師自らが麻酔薬の注入速度と投与後の変化に伴う春子の容態の変化を注意深く観察しながら慎重に麻酔薬を硬膜外注入すべき義務
(5) 硬膜外注入後少なくとも二〇分ないし三〇分間は、医師自らが患者のそばにいて少なくとも一分間隔又は連続して血圧を測定するとともに全身の状況を注意深く観察し、麻酔ショック発症の予兆がみられたときには即時適切に対応すべき義務
を負っていた。それにもかかわらず、被告乙野は、これらを怠ったから、過失が存することは明らかである。
(二) 被告ら
(1) 麻酔薬の硬膜外注入は、春子について回避すべき理由がなく、ペンタジン、ボルタレン等の鎮痛剤を使用するよりも適切な方法である。
(2) 本件手術後の春子に対するマーカイン八ミリリットルの投与の指示は、マーカインの用法、用量及び春子の症状に照らしても相当な処方であり、危険が予測されるものではない。
(3) 原告らの主張するような準備は、ナースステーション内にすれば足り、各病室に設置するのは現実的ではないと考えられるところ、被告病院においても、ナースステーション内には右準備は完了していた。
(4) 医師が、硬膜外麻酔を看護婦に指示して行わせることは医師法等に違反しない。
(5) 原告らの主張するような対応は、望ましいかもしれないが、義務ではない。自動血圧計の測定間隔は、三〇分であったが、その間看護婦が数回入室し、春子の状態を観察していた。
以上によれば、被告乙野には過失は認められない。
2 被告乙川の過失の有無
(一) 原告ら
被告乙川は、春子担当の看護婦として、春子が麻酔薬の硬膜外注入を受ければ、麻酔ショックを発症し、死に至る危険が発生することを予見できたはずであるから、次のような義務、すなわち、
(1) 硬膜外麻酔が、保健婦助産婦看護婦法三七条本文所定の「医師が行うのでなければ衛生上危害を生ずる虞のある行為」に該当することに照らし、春子の術後の痛みに対してマーカイン八ミリリットルを硬膜外に注入する旨の一般的指示がカルテに記載されていても、医師不在のままに硬膜外麻酔を行わない義務
(2) 春子に麻酔薬を硬膜外注入するのであれば、予め麻酔ショック発症に備えて輸液ルートを確保し、室内に昇圧剤、抗けいれん剤、強心剤、副腎皮質ステロイド等を用意しておくほか、気道を確保し、酸素吸入器、人工呼吸器等の蘇生器具で対処できる態勢を整え、医師の即時来室を求め得るような態勢を整えておく義務
(3) 麻酔薬を硬膜外注入するときには、少なくとも一分間隔で血圧を測定するよう自動血圧測定装置をセットするとともに、少なくとも注入後二〇分ないし三〇分間は春子に付き添って全身状況の変化を継続的に注意深く観察し、麻酔ショック症状の発症の可能性が疑われる事態がみられるときには、即時に医師の来室を求めて医師自身による即時適切な回復措置を求めるとともに、自らも所要の緊急措置を講じるべき義務
を負っていた。それにもかかわらず、被告乙川はこれらを怠ったから、過失が存することは明らかである。
(二) 被告ら
(1) 看護婦が医師の指示に従い、医師があらかじめ硬膜外注入のため患者の身体の一部に挿入・留置したカテーテルの中に薬剤を注入する行為は、保健婦助産婦看護婦法等に違反しない。
(2) 原告らの主張するような準備は、ナースステーション内にすれば足り、各病室に設置するのは現実的ではないと考えられるところ、被告病院においても、ナースステーション内には右準備は完了していた。
(3) 原告らの主張するように、麻酔薬を硬膜外に注入するときに、自動血圧測定装置を一分間隔でセットし、看護婦が右注入後二〇分ないし三〇分間患者に付き添う義務はない。被告病院看護婦らは、自動血圧測定装置の測定間隔(三〇分間隔)ごとに数回春子の状態を観察し、ナースコールがあればすぐに来室して適切な処置をとれるように準備していたから、注意義務を尽くしている。
以上によれば、被告乙川には過失は認められない。
3 被告丙野の責任の有無
(一) 原告ら
被告病院では、医師による一般的なカルテの記載に従って看護婦が麻酔薬の硬膜外注入を行うという違法状態が常態化しており、春子の死亡は、このような状況の下で起こるべくして起こったものというべきであるが、被告丙野は、被告病院の病院管理者(医療法一〇条)として、医師、看護婦に対して適切な監督をする義務を負っていた(同法一五条)にもかかわらず、これを怠り、その結果、被告乙野らの前記注意義務違反が発生したものであるから、損害賠償責任を負う。
(二) 被告ら
看護婦が、患者の体内にカテーテルを挿入・留置することはできないが、挿入・留置されたカテーテルから医師の指示に従い薬剤を投与することは、医師法等に反しない。また、被告丙野は、個々の医療行為について医師や看護婦を監視できるものではないから、病院管理者としての注意義務違反は認められず、したがって、損害賠償責任を負わない。
4 被告教団の責任の有無
(一) 原告ら
(1) 債務不履行責任
被告教団は、平成五年八月二二日に春子との間で、同人の左大腿骨頸部骨折の治療を目的とする診療契約を締結したから、同契約に基づき、右治療行為及びそれに付随する医療行為によって春子の生命・身体に害が及ばないよう、医学的専門的知識及び経験を基礎とし善良な管理者の注意をもって患者の安全について配慮すべき注意義務を負っていたにもかかわらず、被告教団は、右義務を怠ったから、債務不履行責任を負う。
(2) 使用者責任
被告教団は、その従業員である被告乙野、同乙川及び同丙野の過失につき、原告らに対して使用者責任(民法七一五条)を負う。
(二) 被告ら
被告教団は、被告乙野、同乙川及び同丙野の使用者であるが、右被告らに注意義務違反が認められない以上、被告教団自らも、債務不履行責任又は使用者責任に基づく損害賠償責任を負わない。
5 因果関係の有無
(一) 原告ら
春子は、被告乙野らの前記過失の競合により、心臓停止に陥り、脳細胞及び心臓にダメージを与えられ、多臓器不全が不可逆的に進行し、心不全により死亡に至ったものであるから、被告らの過失と春子の死亡との間には因果関係が存在する。
(二) 被告ら
春子は、子宮頚部扁平上皮ガンがステージⅢB(ガンが骨盤内に浸潤して骨盤壁に到達している段階)に達しており、昭和六〇年七月二五日から同年八月二六日までコバルトによる放射線治療を受けた後、徐々に貧血が進み、被告病院入院時には、子宮ガン末期の状態で、放射性大腸炎と併せて極端な貧血や栄養不良が進行し体力の衰弱が著しくなっていた。春子は、当時八八歳という高齢であり、手術による出血、大腿及び大腿骨への侵襲により全身状態に対する負担が大きかったところ、右子宮ガンの存在により手術後の回復が十分ではなかったため、通常の状態であれば死亡に至らなかったのに、死亡に至ったものである。
このように、春子の死亡は子宮ガンによるものであるから、仮に、被告らに過失があったとしても、同過失と春子の死亡との間に因果関係は認められない。
6 損害
(一) 原告ら
(1) 遺体搬送費 二万七〇〇〇円
(2) 葬儀関 二九一万五二〇〇円
(3) 春子の逸失利益
三七〇万二六六四円
春子は、死亡当時八八歳の主婦であるところ、賃金センサス産業計・企業規模計・学歴計・女子労働者の平均年収二八四万二三〇〇円、生活費控除三〇パーセント、就労可能年数二年、年五パーセントの割合による中間利息の控除を、左のとおり、新ホフマン式計算法で行うと、春子の逸失利益は、右金額となる。
2,842,300×(1−0.3)×1.861=3,702,664
(4)春子及び原告らの損害(慰謝料)
三〇〇〇万円
春子及び原告らの各固有の精神的損害を金銭的に評価すれば、少なくとも右金額を下回ることはない(当裁判所は、春子の右損害は一五〇〇万円、原告らの右損害は合計一五〇〇万円であるとの主張であると解する。)。
(5) 弁護士費用三六六万四四八六円
原告らは、本件訴訟の提起・遂行を原告ら訴訟代理人に依頼したが、本件損害と相当因果関係にある弁護士費用は、右(1)ないし(4)の合計金額の一〇パーセントに当たる右金額である。
(6) 原告らの損害賠償請求権
春子は、平成五年九月一六日死亡し、春子の夫である甲野三郎(以下「三郎」という。)が二分の一、春子の子である原告らが各八分の一の割合で、春子の被告らに対する損害賠償請求権を相続したが、三郎が平成九年八月一八日死亡したため、原告らは三郎が相続した春子の右損害賠償請求権を各四分の一の割合で相続するに至った。
したがって、原告らは、被告ら各自に対し、相続分及び固有分を合計し、各自一〇〇七万七三三七円の損害賠償請求権を有している。
(二) 被告ら
争う。
7 原告らが三郎から相続した春子の損害賠償請求権に関する消滅時効の成否
(一) 被告ら
春子が死亡した平成五年九月一六日から三年が経過しているので、右請求権は、消滅時効により消滅している。
また、高齢者や寝たきりの者などが不法行為の損害及び加害者を知った時とは、その介護者がこれを知った時であると認められるところ、三郎の介護者である原告らは、被告らに対する責任追及のため弁護士を委任した平成六年一月六日には、損害及び加害者を知っていたから、右損害賠償請求権は、時効により消滅している。
(二) 原告ら
三郎は、右損害及び加害者を知らないまま死亡したものであるから、原告らが三郎から右請求権を相続した平成九年八月一八日が消滅時効の起算点である。そして、原告らは、平成一〇年二月一三日の本件第一回弁論準備手続期日において、右請求権を訴求しているから、消滅時効期間は経過していない。
第三 争点に対する判断
一 事実経過
前記争いのない事実、証拠(<省略>)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
1(一) 春子は、被告病院に入院するまでは、国立療養所刀根山病院(以下「刀根山病院」という。)及び国立循環器病センター等の整形外科、神経内科及び循環器科等で診察を受けたほか、子宮ガンにより、昭和六〇年七月から一〇月にかけて大阪大学微生物学研究所附属病院婦人科に入院し、放射線治療を受け、平成五年七月三〇日には、右病院において子宮頚部扁平上皮ガンステージⅢB(子宮の触診上ガン組織が骨盤壁まで達している状態)、クラスⅡ(塗抹細胞診検査の結果によればガン細胞は存在しないが、異型細胞が認められる状態)との診断を受けていたが、その後は自宅で主婦として生活をしていた。
(二) 三郎(明治三一年二月二七日生)は、春子の夫で、平成九年八月一八日に死亡した者であり、原告らは、三郎と春子の子である。甲野秋子(以下「秋子」という。)は、原告甲野太郎(以下「原告太郎」という。)の妻であり、原告太郎及び秋子は、三郎及び春子の住居と同じ敷地内の別棟に居住していた。
(三) 被告教団は、被告病院を開設する宗教法人であり、被告丙野は、当時被告病院の医療法一〇条所定の病院管理者、被告乙野は被告病院に勤務する医師であり、被告乙川は、被告病院の看護婦である。
2(一) 春子は、平成五年八月二一日午前八時五〇分ころ転倒して左大腿骨頚部を骨折したことから、同日午前一〇時四〇分ころ被告病院に運ばれ、当直医であった被告病院麻酔科部長堀口医師の診察を受けた。春子は左足の痛みのため安静を保てない状態であったため、堀口医師が、同日午前一二時ころ脊椎の硬膜外腔にカテーテルを挿入し、キシロカイン一〇ミリリットルを硬膜外注入したところ、春子は、最高血圧が八〇以下に低下し、顔面蒼白となって意識喪失の状態に陥ったが、エホチール一アンプル、プリンペラン一アンプル、生理的食塩水二〇ミリリットルを投与することにより回復した。
左腎部のレントゲン撮影により、春子が左大腿骨頚部を骨折していることが判明したため、堀口医師は、春子及び同人に付き添っていた秋子に対し、手術が必要であるが、被告病院では当日及び翌日に手術をすることはできないこと、転院する場合でも、それまでは入院できることを説明した。春子らは、翌々日の月曜日である同月二三日には自宅に近い刀根山病院へ転院するが、それまでは被告病院に入院する旨を希望したので、堀口医師は、これに応じて、紹介状を用意するとともに、入院を指示し、春子の痛みに対しては、キシロカイン八ミリリットルを必要がある場合に最低四時間以上の間隔をおいて硬膜外注入の方法で投与するよう、医師指示票に記載した。
(二) 被告乙野は、平成五年八月二二日に堀口医師から引継ぎを受けて春子の主治医となり、カルテにも目を通し、前日キシロカインを投与した後に春子の血圧が低下した事実を認識した。
被告乙川は、平成五年四月ころ看護婦となり、被告病院に勤務していたものであるが、同年八月二二日に春子の担当になり、前日のキシロカイン投与後の血圧低下についても引継ぎを受けたが、春子が同日午前一一時一五分ころ左足の痛みを訴えたので、チャージ・ナース(他の看護婦に指示を出す責任者である看護婦)であった羽鳥アツコ看護婦(以下「羽鳥看護婦」という。)から、堀口医師が医師指示票に記載した内容の説明を受け、そのとおり処置するようにとの指示を受け、同日午前一一時三〇分ころキシロカイン八ミリリットルを春子に硬膜外注入したところ、同日午前一一時四五分ころには春子の血圧が最高七〇、最低四八に低下し、手指冷感となり、顔面、唇及び舌が蒼白となった。
しかし、被告乙川から連絡を受けた羽鳥看護婦が、被告乙野に電話連絡して指示を受けることができたため、被告乙川がこれに従いエホチール四分の一アンプルを静脈注射し、残りを点滴投与したところ、春子の血圧は、同日午後〇時一五分には最高一六八、最低六〇に回復した。なお、被告病院においては、当時、看護婦に対し、麻酔薬の硬膜外注入後、五分間隔等で頻回に血圧を測定するようにとの一般的指示は行われていなかった。
3(一) 春子は、転院を取り止め、被告病院において本件手術を受けることにしたが、被告病院において手術時の麻酔を担当し、本件手術においても関与する予定であった堀口医師が、平成五年八月二三日交通事故により重傷を負って入院せざるを得なくなったため、被告乙野は、同月二五日に被告病院一般外科担当医師山根康彦(以下「山根医師」という。)に対し、麻酔医として春子の手術に立ち会うよう要請し、その際キシロカイン投与後春子の血圧が低下した事実を伝えた。
(二) 春子は、平成五年八月二六日(以下、同日の出来事については、時間だけで表記することとする。)に被告乙野が執刀医、山根医師が麻酔医となり、左大腿骨頸部骨折部に対するダイナミック腎部スクリューによる観血的内部整復法による手術を受けた。春子の血圧は、午前七時には最高一三〇、最低八〇、午前七時三五分には、最高一八〇、最低九五であったが、山根が午前八時にキシロカイン一〇ミリリットルを硬膜外に注入したところ、午前八時一〇分には最高八〇、最低五〇に低下したため、エホチール二ミリリットルが静脈注射され、一旦は血圧が回復したが、午前八時二五分には再び最高九〇、最低五〇まで低下したので、再度エホチール二ミリリットルの静脈注射が行われた上、午前八時三〇分に本件手術が開始された。本件手術開始後も、エホチール二ミリリットルの静脈注射が二回なされたほか、本件手術終了近くには、再度キシロカインが硬膜外注入されることになったが、血圧低下等の防止のため、午前九時二五分ころキシロカイン五ミリリットルの硬膜外注入後、午前九時三〇分過ぎにはエホチール二ミリリットルの静脈注射、キシロカイン五ミリリットルの硬膜外注入後、午前九時四〇分にはエホチール二ミリリットルの静脈注射というように、キシロカインとともにエホチールを投与する方法が採られた。
本件手術は、午前九時四五分に終了し、春子は、午前一〇時に病室へ戻された。
(三) 被告乙野は、本件手術後、カタボンの静脈注射により血圧を九〇以下に下げないこと、春子が痛みを訴えたときは、必要に応じて最低四時間以上の間隔をおいてマーカイン八ミリリットルを硬膜外注入すること等を医師指示票に記載した。
4(一) 春子は、午後一時ころのほか、午後三時ころにも痛みを訴えたので、春子の看護に当たっていた被告乙川は、当時のチャージ・ナースである佐藤看護士にこれを報告し、同人から被告乙野の右医師指示票の記載に従ったマーカインの硬膜外注入の指示を受けた。被告乙川は、右準備をしたが、その準備中、被告乙野が来室し、春子に挿入されたカテーテルのキャップを外そうと試みたが、外せなかった。
(二) 佐藤看護士が春子に挿入されたカテーテルのキャップを外し、被告乙川が、午後三時一三分ないし一四分ころにマーカイン八ミリリットルを春子に硬膜外注入したところ、午後三時には最高一五六、最低八三であった春子の血圧は、午後三時三〇分には自動血圧測定装置による測定で、最高五四、最低二一と急激に低下した。右血圧低下に伴い、ナース・ステーションで警報が鳴ったため、同所で待機していた佐藤看護士は春子の病室に向かった。また、同室の別の患者の検査の手伝いをしていた被告乙川は、春子に付き添っていた秋子から右血圧低下を知らされ、春子に呼名反応があることを確かめた上で、手動血圧測定装置による血圧測定を行うなどしたが、春子の血圧は、午後三時三一分には最高五九、最低二八、午後三時三七分には最高五三、最低三一と低下したままで、呼名反応もなくなり、午後三時四〇分には、血圧が最高四五、最低〇となり、呼吸・脈拍が停止したため、来室した佐藤看護士が、気道確保を行い、人工呼吸を始めるとともに、緊急処置としてエホチール八ミリグラムを点滴、二ミリグラムを静脈注射により投与し、カタボンの点滴を全開にしたが、午後三時四五分には、春子の血圧は測定不能になった。
(三) 被告乙野及び山根医師は、佐藤看護士らの連絡を受けて、病室に到着し、春子に対する心臓マッサージが開始され、心電図モニター及びアンビュバックが装着されたことから、春子の心拍数は、二二ないし二四に回復し、午後三時五五分には、春子の血圧は最高一五六、最低六六、心拍数は一二九ないし一三〇に回復したものの、意識レベルは三―三―九度方式による三〇〇(刺激しても覚醒せず、痛み刺激にも全く反応しない状態)ないし二〇〇(刺激しても覚醒しないが手足を動かしたり顔をしかめることがある状態)までしか回復しなかった。
5 春子は、右意識状態のまま、徐々に全身状態が悪化し、平成五年九月一六日午前五時四四分、心不全により死亡した。
6 被告乙野及び被告乙川は、春子の死亡について、業務上過失致死被疑事件等で取調べを受けた結果、被告乙野については、業務上過失致死罪による略式起訴が行われ、平成一〇年三月三日に神戸簡易裁判所において、罰金一五万円に処する旨の略式命令の告知を受け、右裁判は確定した。
二 麻酔に関する知見
証拠(<省略>)及び弁論の全趣旨によれば、現在における麻酔及び麻酔等に関する知見は、次のとおりであると認められる。
1 硬膜外麻酔とは、脊椎の硬膜外腔に局所麻酔薬を注入することによって神経の刺激伝達をブロックする局所麻酔法であり、麻酔部位に対応する部位の硬膜外腔にカテーテルを挿入し、同カテーテルのコネクターに注射器を接続して薬液を注入する方法により行われる。一般に、高齢者ほど硬膜外血管の透過性が少なくなり、麻酔薬が硬膜外腔に留まり易くなるため、麻酔の広がりが大きくなるとされる。
硬膜外麻酔による二〇パーセント以上の血圧低下の発生頻度は、穿刺部位が腰部で、六〇歳以上の患者の場合、五分後において一五パーセント、一〇分後において三一パーセント、一五分後において二七パーセント、三〇分後において二六パーセントとの調査結果がある。
2 手術後の患者の状態の管理としては、痛みに伴う血圧上昇及び興奮の予防等のため、鎮静、鎮痛の処置が必要であるが、これには、①鎮痛剤を筋肉注射する方法、②鎮痛剤を座薬として投与する方法、③持続硬膜外麻酔の方法がある。このうち、③は、痛みを除去するという点では優れているが、手術後の痛みは一般にはそれほど激しくはないし、硬膜外腔へのカテーテル挿入が必要であり、血圧低下という副作用の危険性があることから、①又は②の方法が用いられることも多い。しかしながら、①及び②の方法には、嘔吐感、悪心等の副作用の危険性がある上、①は痛みを伴い、その効果が全身に及び、②は効果の発現が相当緩慢であるという難点がある。このため、③の方法を採り、局所麻酔薬の量を減らす代わりに麻薬系鎮痛剤オピオイドを投与して麻酔薬の副作用の危険性を減らしつつ鎮痛効果を得るという方法も行われているが、この場合には、鎮痛剤の副作用である呼吸抑制や悪心の発生の危険性が生ずる。
このように、どの方法もいわば一長一短であることから、医師は、患者の状態や自己の経験等を踏まえて適宜の方法を選択しているのが実情である。
3(一) 局所麻酔剤キシロカイン注射液は、塩酸リドカインを含有する注射液であり、0.5パーセント、一パーセント及び二パーセントのものがある。硬膜外麻酔に使用する際の用量は、通常、一パーセント注射液の場合で一〇ないし二〇ミリリットルであるが、患者の年齢、麻酔領域、部位等により適宜増減するものとされている。キシロカインは、六分ないし一二分で麻酔作用が発現し、六〇分ないし九〇分持続するもので、作用の発現が早く、麻酔力も強く、作用時間も比較的長いため、臨床麻酔に最も多く使用されているが、その反面、血圧降下、顔面蒼白、脈拍の異常、呼吸抑制等のショック様症状を起こすという副作用があり、特に高齢者においてはその危険性が高いとされている。右副作用を完全に防止する方法はないので、その投与に当たっては、ショック様症状をできるだけ避けるために、患者の全身状態の観察を十分に行うこと、必要に応じて血管収縮薬の併用を考えること及び常時直ちに救急処理の取れる準備をすること等が望ましいとされている。
(二) 局所麻酔剤マーカイン注射液は、塩酸ブビバカインを含有する注射液であり、0.125パーセント、0.25パーセント及び0.5パーセントのものがある。硬膜外麻酔による疼痛疾患の治療に使用する際の用量は、通常、0.125パーセント注射液で一〇ミリリットルであるが、患者の年齢、麻酔部位、全身状態等により適宜増減するものとされている。マーカインは、一〇分ないし一五分で麻酔作用が発現し、六〇分ないし二七〇分持続するという長時間作用性が特徴であるとともに、キシロカインよりも薬効が強い(キシロカインの四分の一の濃度で、同量のキシロカインと同様の麻酔効果が得られるともいわれる。)。副作用としてのショック様症状の危険性及びその投与に当たっての注意は、キシロカインと同様である。
(三) 昇圧剤エホチール注射液は、塩酸エチレフリンを含有する注射液であり、心筋収縮作用がある。エホチールは、急性低血圧又はショック時の補助治療に用いられるほか、ショック発生を防止するため、麻酔薬等の投与と併用されることもある。
三 当裁判所の判断
1 被告乙野の過失の有無について
(一) 右一及び二の認定事実によれば、春子の主治医であった被告乙野は、春子がマーカインの硬膜外投与を受ければ、キシロカイン投与の場合と同様、又はそれ以上に確実に血圧低下等を来し、場合によってはショック症状を発症し、呼吸及び心臓機能の停止を惹起する可能性すら払拭できないことを認識できたはずである。したがって、被告乙野としては、春子が本件手術後に痛みを訴えた場合の処置についても、局所麻酔薬の硬膜外注入の方法は避け、これと同様の効果が得られる鎮痛剤の筋肉注射ないし座薬としての投与を指示すべきであり、仮に、局所麻酔薬を硬膜外に注入するのであれば、副作用発現の危険を避けるため、少なくとも現実に副作用が発現したキシロカイン八ミリリットルの投与よりも、濃度・量・効用を相当減じた麻酔薬を投与するよう指示すべき義務があったと認められる。
また、被告乙野は、右のとおり、春子に現実に麻酔薬の副作用であるショック症状が発生したことに照らし、副作用が発現した場合には、即時に適切な対応がとれるように、春子にはこのような症状が発現する可能性があること及び同症状が発現した場合の対処方法を立ち会う看護婦に対して予め教示するとともに、必要な器材を備え、右症状が発現した場合、直ちに昇圧剤の投与及び気道確保を行い得るよう準備した上、医師自ら薬液を注入するか、注入の場に立ち会い、少なくともマーカインの効果が発現する一〇分ないし一五分間は、右態勢を維持すべき注意義務が認められる。
(二) しかしながら、前記認定事実によれば、被告乙野は、春子が本件手術前にキシロカインの投与を受けた二回ともその直後に血圧が低下し、本件手術時にもキシロカイン投与後春子の血圧が低下し、昇圧剤を投与して血圧を回復させていたことを執刀医として認識し、しかも、鎮痛剤を投与することにより、麻酔薬の硬膜外注入と同様の効果が得られるにもかかわらず、春子の血圧が低下する危険性に対する対処について特段の指示を与えることなく、漫然とキシロカイン以上に薬効のあるマーカインの投与を指示し、しかも、右危険性に対する対処の準備をすることなく、被告乙川らにこれを行わせたものである。
したがって、被告乙野は、春子に対する麻酔薬の投与に関し、医師として行うべき注意義務に違反した事実が存するものといわざるを得ない。
(三) 被告らは、春子に投与したマーカインの分量は、一般に用いられる投与量と比較しても、決して過大ではないから、被告乙野が春子に前記症状が発生することを予見することはできない旨主張する。
しかしながら、薬剤の投与量は、その投与を受ける患者の体質に応じて異なるものであることはいうまでもないところ、春子は、前記認定のとおり、マーカインよりも麻酔力の低いキシロカインの投与によっても血圧の急激な低下が認められたのであるから、一般的に用いられる投与量を基準とすべきでないことは明らかである。
したがって、被告らの右主張は採用できない。
2 被告乙川の過失の有無について
(一) 前記認定事実によれば、被告乙川は、チャージ・ナースである佐藤看護士の指示を通じて医師である被告乙野が医師指示票に記載した指示に従い、春子に対しマーカインを注入したものであるところ、被告乙川は、医師である被告乙野の補助者にすぎず、同被告の取った指示内容の当否について判断し得る立場になく、その能力も有しなかったことが認められる。また、前記認定事実によれば、被告乙野の行った前記指示は、一応マーカインの投与に関して一般的に考えられる注意事項を記載したものであるから、被告乙川が看護婦としての知識・経験に照らし、当然に疑問を持つべき内容であるとも認められない。
したがって、春子に対する右マーカインの注入については、被告乙野が専らその責任を負うべきであり、被告乙川が、医師である被告乙野の指示があるにもかかわらず、麻酔薬の硬膜外注入を行わない義務や、医師の指示がないのに原告ら主張のような準備を整える義務に違反した事実を認めることはできない。
(二) 原告らは、硬膜外麻酔は、保健婦助産婦看護婦法三七条本文所定の「医師が行うのでなければ衛生上危害を生ずる虞のある行為」に該当するから、春子の術後の痛みに対してマーカイン八ミリリットルを硬膜外に注入する旨の医師の一般的指示がカルテに記載されている場合であっても、被告乙川には、医師不在のままに硬膜外麻酔を行ってはならない義務があったなどと主張する。そして、なるほど、証拠(<省略>)によれば、厚生省は、「麻酔行為について」と題する照会についての回答(昭和四〇年七月一日付け)において、看護婦が、診療の補助の範囲を超えて、業として麻酔行為を行うことは、医師法違反になるし、実態上医師の指示がないか、又は医師が指示することが通常不可能と考えられる状態において、医師でない者が麻酔行為を行うことは、医師法又は保健婦助産婦看護婦法に違反するものと解されるとの行政解釈を示していることが認められる。
しかしながら、右解釈は、看護婦等医師でない者が医師の判断によらずに、自己の判断で業として麻酔行為を行うことが医師法等に違反するとの趣旨であると解されるところ、前記認定にかかる被告乙野による医師指示票の記載の内容は、いかなるときにマーカインをどのくらいの分量投与するか、いかなるときには春子が痛みを訴えても投与してはいけないかという点を明確かつ具体的に指示しており、他の者の判断を差し挟む余地がなく、被告乙川は、右指示に従いそのとおりの措置を行ったものといえるから、同被告が医師の指示によらずに麻酔行為を行ったものということはできない。また、患者に挿入されたカテーテルのキャップを取り、薬剤を注入する行為は、看護婦にとって技術的に困難を伴うものではなく、証拠(<省略>)によれば、中小規模の病院においては、現実に看護婦が右を行っているのが実情であることが認められる。
(三) したがって、原告らの右主張は採用できない。
3 被告丙野の責任の有無について
(一) 原告らは、被告病院においては、硬膜外麻酔が保健婦看護婦助産婦法三七条本文所定の「医師が行うのでなければ衛生上危害を加える虞のある行為」であるにもかかわらず、医師による一般的なカルテの記載に従って看護婦が行うという違法状態が常態化しており、春子の死亡はこのような状況の下で起こるべくして起こったものであるから、被告丙野には、病院管理者としての義務を怠った過失があると主張する。
しかしながら、医師が医師指示票に一義的な指示を記載して看護婦に麻酔薬の硬膜外注入を行わせることが違法とまではいえないことは、前述のとおりであるから、原告らの右主張は採用できない。
(二) しかしながら、前記認定のとおり、被告丙野は、被告病院の病院管理者(医療法一〇条)として、医師、看護婦に対して適切な監督をする義務を負う(同法一五条)のであるから、被告教団が被告病院において使用する医師の不法行為について民法七一五条二項にいう事業監督者として責任を負うことは明らかである。そして、被告乙野に注意義務違反が認められることは前記認定のとおりであるから、被告丙野は、被告乙野を使用する被告教団の被告病院における病院管理者として、被告乙野の右注意義務違反について、事業監督者責任を負うと認められる。
4 被告教団の過失の有無について
前記認定事実によれば、被告乙野が被告教団の開設する被告病院の被用者に該当することは明らかであるところ、前述のとおり、被告乙野において医師としての注意義務違反の事実が認められる以上、被告教団は、民法七一五条一項に基づき、右注意義務違反の事実について、使用者責任を負うと認められる。
5 因果関係について
(一) 前記認定事実によれば、春子は、被告乙野が右注意義務に違反してマーカインを注入したため、ショック症状を起こし、その血圧が低下し、心臓停止に陥り、脳細胞及び心臓にダメージが与えられ、多臓器不全が不可逆的に進行し、心不全により死亡に至ったことが認められる。
(二) 被告らは、春子の死亡は子宮ガンによるものであるから、マーカインの投与と春子の死亡との間には因果関係がないと主張し、証拠(乙一一)中にはこれに沿う部分がある。そして、前記認定事実によれば、春子は、平成五年七月三〇日の時点において、子宮頚部扁平上皮ガンが骨盤内に浸潤して骨盤壁に到達しているステージⅢB(TNM分類による)の状態であったことが認められる。
しかしながら、前記認定事実及び証拠(<省略>)によれば、春子は、昭和六〇年七月から同年一〇月にかけて、子宮ガンにつき放射線治療を受けていたが、平成五年七月三〇日の時点の塗抹細胞診の結果は、膣壁正常、貧血状、子宮口見られない、附属器軟、子宮小にして可動性あり、傍子宮結合組織軟というものであって、ガン細胞は見られない状態であり、クラスⅡ(パパニコロー分類による五段階評価のうち、正常な方から二番目の段階。クラスⅠは異型細胞及び異常細胞のないもの、クラスⅡは悪性所見を示さない異型細胞があるものである。)との診断を受けており、平成五年八月二一日に被告病院に入院した際も、貧血は見られるものの、ガンの進行を示す所見は認められなかったことが認められる。これに春子が当時、一般的にはガンが急激に進行しにくいと考えられる八八歳の高齢であったこと及び前記認定にかかるマーカインの投与後における春子の症状の急変を勘案すれば、春子の死因が子宮ガンによるものとは考えられない。乙一一中右認定に反する部分は信用できず、他に被告らの右主張を裏付けるに足る的確な証拠はない。
したがって、被告らの右主張は採用できない。
6 損害について
(一) 遺体運送料及び葬儀関係費
合計一二〇万円
証拠(<省略>)によれば、原告らが春子の遺体運送料二万七〇〇〇円及び葬儀料として二九一万五二〇〇円を支払ったことが認められるが、被告乙野の注意義務違反と相当因果関係にあるのは、そのうち一二〇万円であると認めるのが相当である。
(二) 春子の逸失利益
三一七万三七一二円
前記認定事実によれば、春子は、死亡当時八八歳で無職であったが、三郎と生活し、主婦として稼働していたものと認められるから、賃金センサスに基づく平均年収二八四万二三〇〇円、生活費控除四〇パーセント、就労可能年数二年に基づき、左のとおり、新ホフマン式計算法で行った右金額を、春子の逸失利益と認めるのが相当である。
2,842,300×(1−0.4)×1.861=3,173,712
なお、前記認定事実によれば、春子には子宮ガンの既往症があったことが認められるものの、右事実から直ちに右再発・転移等による春子の余命に対する影響の程度を覚知することはできないから、これによって春子の就労可能年数を短縮する必要はないと判断する。
(三) 春子の慰謝料一二〇〇万円
前記認定事実によれば、春子は、高齢ではあったものの、自宅で日常生活を営んでいたものであり、それ自体生命を脅かすものとはいえない大腿骨の骨折の手術のために被告病院に入院し、当該患部に対する本件手術も無事終わったにもかかわらず、鎮痛のために麻酔薬を注入されたことによって麻酔ショックを発症してその生命を失ったものであり、これにその後の被告らの対応その他本件に現れた一切の事情を考慮すれば、春子の慰謝料としては、一二〇〇万円をもって相当と認める。
(四) 原告ら固有の慰謝料
各自一五〇万円
右(三)で述べた諸般の事情を考慮すれば、春子の子である原告ら固有の慰謝料としては、原告ら各自について一五〇万円をもって相当と判断する。
(五) 弁護士費用合計二二〇万円
弁論の全趣旨によれば、原告らが被告らに対する本件訴訟の提起・遂行を原告ら訴訟代理人らに委任したことが認められるところ、本件事案の難易、訴訟追行の経過、本件請求額、前記認容額等本件に現れた一切の事情を考慮すれば、本件と相当因果関係にある弁護士費用は、原告らについて合計二二〇万円をもって相当と判断する。
(六) 原告らの請求権
前記認定のとおり、春子は、平成五年九月一六日死亡し、春子の右(二)及び(三)の各損害賠償請求権は、三郎が二分の一、原告らが各八分の一の各割合で相続されたが、三郎が平成九年八月一八日死亡したため、原告らは三郎の相続した右請求権を各四分の一の割合で相続している。
したがって、原告らは、被告乙野、同丙野及び同教団各自に対し、各自六一四万三四二八円及びこれに対する不法行為の後である平成五年九月一六日以降の民法所定の年五分の割合による遅延損害金の損害賠償請求権を有している。
7 消滅時効の成否について
被告らは、原告らが三郎から相続した春子の損害賠償請求権を訴求した本件第一回弁論準備手続期日である平成一〇年二月一三日は、春子の死亡した平成五年九月一六日から三年が経過しているし、高齢者や寝たきりの者などが不法行為の損害及び加害者を知った時とは、その介護者がこれを知った時であると認められるところ、三郎の介護者である原告らは、被告らに対する責任追及のため弁護士を委任した平成六年一月六日には、損害及び加害者を知っていたから、右請求権は、消滅時効により消滅していると主張する。そして、右訴求の時点が右のとおりであることは、当裁判所に顕著な事実である。
しかしながら、証拠(<省略>)及び弁論の全趣旨によれば、原告らは、当時三郎が高齢であり、しかも体調がすぐれなかったことから、同人に知らせずに本件訴訟を提起したことが認められるところ、三郎が、その死亡までに、春子の死亡について損害及び加害者を知っていたことを認めるに足る証拠はない。また、三郎の生前に原告らが三郎の有する損害賠償請求権を行使することは法律上できないのであるから、原告らが損害及び加害者を知っていたからといって、三郎の損害賠償請求権について消滅時効が進行する余地はない。
以上によれば、右請求権に関する消滅時効の起算点は、原告らが三郎を相続した平成九年八月一八日と認めるべきであるから、被告らの右主張は、採用できない。
四 結論
以上のとおり、原告らの本件請求は主文第一項記載の限度で理由があるから、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官田中敦 裁判官大藪和男 裁判官森岡礼子)